1.2.3.4.5.6.7.  CD7枚組
天才の家系を研究するのに最適なのは、日本画の狩野派の家系とバッハの家系と言われていたような、、、間違っていたらごめんなさい。
 今回はそのバッハの息子たちにスポットを当ててみようと思います。何時の世もそうですが,あまりにも偉大な父親を持つ子供たちの気持ちはいかばかりでしょうか。音楽史に燦然と輝く父、JOHANN SEBASTIAN BACH、彼には伝えられるところによると20人の子供たちがいました。
このシリーズは少し長くなりそうです。少しずつまとめていきますのでご辛抱を!東京書籍発行の
マルティン・ゲック著「ヨハン セバスチャン バッハ」
4冊セット:第1巻 生涯
      第2巻 声楽曲
      第3巻 器楽曲
      第4巻 資料編
の年譜からバッハの子供たちについてピックアップしてみます。 
男子青字 女子緑字
1707年(バッハ22歳) 10月17日 マリア・バルバラと結婚
1708年(23) 12月29日 長女カタリーナ・ドロテア受洗
1710年(25) 11月22日 長男ヴィルヘルム・フリーデマン誕生(CD6)
1713年(28)2月23日 双子マリア・ゾフィーアヨハン・クリストフ誕生
(2人とも誕生後まもなく死亡)
1714年(29)3月8日 カール・フィリップ・エマヌエル誕生(CD1.2.3.)
1715年(30)5月11日 ヨハン・ゴットフリート・ベルンハルト誕生                      (1739/5/27イエナで没)
1718年(33)11月15日 レオポルド・アウグスト誕生(翌年死去)
1720年(35)7月7日 妻 マリア・バルバラ埋葬
1721年(36)12月3日  アンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚
          ~彼女とは13人の子供をもうける,成人したのは6人~
1723年(38)初春 クリスティアーナ・ゾフィーア・ヘンリエッタ誕生(1726/6/29没)
1724年(39)2月26日 ゴットフリート・ハインリヒ誕生
1725年(40)4月14日 クリスティアン・ゴットリーフ受洗 (1728/9/21没)
1726年(41)4月5日 エリザベート・ユリアーネ・フリーデリカ受洗
1727年(42)10月30日 エルネストゥス・アンドレアス受洗(11/1没)
1728年(43)10月10日 レギーナ・ヨハンナ受洗  (1733/4/25没)
1730年(45)1月1日 クリスティーナ・ベネディクタ受洗(1/4没)
1731年(46)3月18日 クリスティーナ・ドロテーア受洗(1732/8/31没)
1732年(47)6月21日 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ誕生(CD7)
1733年(48)11月5日 ヨハン・アウグスト・アブラハム受洗(11/6没)
1735年(50)9月5日 ヨハン・クリスティアン誕生(CD4,5)
1737年(52)10月30日 ヨハンナ・カロリーナ受洗
1742年(57)2月22日 レギーナ・スザンナ受洗
   (受洗:洗礼を受けること、教会に記録が残っているので誕生日より正確)
以上、総勢20人の子供たちです!
<バッハと2人の妻たち> 
バッハ(ヨハン セバスチャン)は、先妻マリア・バルバラとの間に7人、後妻のアンナ・マグダレーナとの間に13人の子供をもうけました。バッハの家庭生活を具体的に記した資料は残っていないそうです。先妻のマリア・バルバラはバッハより1歳半年上で又従妹にあたります。教会簿記録によると「かつてオルガニストの職にあり,その技によって有名だった尊敬すべき故ヨハン・ミッヒャエル・バッハ氏の末娘で貞淑な女性」であったそうです。バッハはこの義父を「敏腕な作曲家 habilier Componist」と呼んでいます。従ってこの結婚はバッハ一族の持つ音楽的才能の結合と言えるのかもしれません。
マリア・バルバラの死因と彼女の死を知った時のバッハの対応については何も伝えられていません。
死の翌年、後添いとして36歳の男やもめのバッハが見初めたのが、宮廷トランペット奏者ヨハン・カスパル・ヴィルケのちょうど20歳の娘アンナ・マグダレーナ・ヴィルケでした。バッハの人生において家族は明らかに希望の光であり、彼女は夫バッハの良き助け手であったばかりでなく子供たちの音楽教師、そしてチェンバリストでした。アンナ・マグダレーナは優れたソプラノ歌手としてもバッハに付き添い夫の指揮する演奏にたびたび参加しました。家庭では楽譜の筆写に協力しました。(彼女の筆跡は夫バッハの筆跡にきわめて似ているという事実は有名ですがそのために後の研究者は判断を誤ることもしばしばでした)さらに家庭での彼女の主な仕事は,子供たちの世話でした。マリア・バルバラの遺児を始め自らも13人の子供を産んだ訳ですからそれは大変だったでしょう。49歳で未亡人となった彼女は再婚せず未成年の子供たちの世話をすることになります。(1760年2月29日にライプツィッヒにて死去 享年59歳)
<息子たちとCD> 
長男ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710~1784)
CD6ジャケットは自画像
息子たちの中では、最も才能を期待されながら不幸な晩年を送った「ハレのバッハ」といわれる長男ヴィルヘルム・フリーデマン父親からこの上ない期待と惜しみない愛情をかけられたが、それだけ過保護に育てられたため克己心がなく、しかもむやみと夢想家で、才能に恵まれていたにもかかわらず、虚栄心からそれを活かせず仕舞いであった。しかも悪いことに猜疑心が強く、一時期は成功を掴みかけたこともあったものの、人望のなさが祟って、晩年に人脈を失っている。好機を逃し続けた一生であったと言える。
ヴァイマールに生まれてライプツィヒで教育を受け、1733年にドレスデンの聖ソフィア教会の、1746年にハレの貴婦人教会(Liebfrauenkirche)のオルガニストに就任。ハレに就職するにあたっては、父親が睨みを利かせため、通常の演奏試験なしで採用されている。
1750年に父親が世を去り、フリードマンの生活から父親の威光が失われると、ハレでの生活が不幸なものとなり、別の任地を求めて頻繁に各地を旅するようになる。1762年にダルムシュタットの宮廷楽長に任ぜられるが、ある理由からその地位に就任しなかった。2年後の1764年に、いきなりハレの地位を捨てる。自らハレの任務を辞しただけでなく、実際にはその後もどこでも公職に就くことができなかった。その後は最期の日を迎えるまで放浪の日々を続け、貧窮の末にベルリンで享年74歳で亡くなった。(ウィキペディアより一部転用)
 CDを聞いてみると確かに才能豊か、明るい音色の曲が多いと感じます。これはきわめて素人感覚なのですが静と動、速と遅、明と暗のバランスに欠けるようにも思えます。お父さんがあまりに完璧なので評価はかわいそうな気がします。ましてや私のようなど素人がコメントするのはおこがましいのですが、なんか落ち着いて聞き続けられない,,良いんだけど、、というコメントです。膨大な作品を残しましたが出版された作品は少ないそうです。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714~1788)
プロイセンでフリードリヒ大王の伴奏者となり後にハンブルクでテレマンの後任を務めて「ベルリンのバッハ」「ハンブルクのバッハ」といわれた次男カール・フィリップ・エマヌエル(1714-1788)CD3ジャケットはアドルフ・フォン・メンツェル作画の「無憂宮におけるフルート演奏」。1852年の歴史画であり、作者の想像に基づいている(実際の現場を忠実に模写したものでない)。中央で右向きに立ってフルートを吹いているのがフリードリヒ大王で、そのかたわらに(閲覧者に背を向けて)腰掛け、大王を横目に見ながらチェンバロで伴奏しているのがカール・フィリップ・エマヌエル(ウィキペディアより)
 カール・フィリップの作品、作風は、ハイドンやベートーヴェンに多大な影響を与えました。生前は父親よりも有名で、バッハの息子たちやハイドン・モーツァルトが活躍していた18世紀後半では、「大バッハ」といえば次男カール・フィリップ・エマヌエルのことを指し、ヨハン・ゼバスティアンは一般には今では信じられないことですが「エマヌエルの父で、昔風の音楽を書いていたオルガン・チェンバロ即興演奏の名人」としてしか認められていませんでした。(このバッハに対する評価の落差についてはまたいずれまとめるときに)
その意味で言うと兄弟の中では誰よりも成功を収めましたが、本人は父親の指導があったから自分が成功することができたと言っています。その意味においては、初期のバッハ神話を創り出した張本人であったと言えます。作品の数は膨大で、現代の演奏家にも見直され取り上げられる機会が増えています。このCD7枚組の3枚がカール・フィリップ・エマヌエルの作品というのもうなずけるところです。鍵盤作品が多いのですが、その理由として息子唯一カール・フィリップ・エマヌエルは左利きで弦楽器をあまり得意とせず鍵盤楽器を得意としたということがあるそうです。作風は、、、あっと驚くモーツアルトへ続くそんなイメージでしていろんな機会に聴いてくださるとおもしろい!といっては何ですがバランスが良いように思います。(まあ素人の戯れ言ですが、、)
ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732~1795)父、ヨハン・セバスチャンが65年の生涯を終えた時には、18歳となっていたヨハン・クリストフ・フリードリッヒは優れた音楽家として成長しつつありました。1949年の暮れにはビュッケブルグの宮廷音楽家になることが決まっていました。彼はその年のクリスマスに母アンナ・マグダレーナから一冊のルター訳聖書を送られています。その際「つねに変わらぬ敬虔な思いとキリスト教の信心に寄せて,お前に忠実で好意を寄せる母、アンナ・マグダレーナ・バッハ,愛する息子にこの素晴らしい本を送ります」という言葉が添えられました。アンナ・マグダレーナにとっては実子であるヨハン・クリストフ・フリードリヒが宮廷音楽家になることに対してこの上ない喜びを持っていたことは想像に難くありません。夫ヨハン・セバスチャンは彼がビュッケブルグの宮廷に就職する際に手紙を書いて後押ししたことは大バッハ自身も息子の成長を喜んでいた証と言えましょう。しかしこの手紙は本人が書いたものではなく代筆されたものでした。それほど目の状態が良くなかったのでしょう。ヨハン・セバスチャンは遅くとも1749年の暮れには最後の大傑作<ロ短調ミサ曲>の仕事を終えましたが,秋以降視力が甚だしく低下し1750年の2度にわたるイギリス人眼科の医者ジョン・テイラーの手術により急速に死に向かって行きます。
(このことについては「大作曲家の知られざる横顔」渡邊學而著丸善ライブラリーに詳しく載っています。ヤブ医者ジョン・テイラーの治療のせいで寿命を縮められた内容が書かれています。しかし,新しい研究によればバッハの死因は目の手術の失敗ではなく未治療の糖尿病にあったとされているようです。それが原因で白内障を引き起こし卒中にいたったと。
この本はほかにモーツアルトの毒殺の真犯人は?等大作曲家の裏話が満載の本である。尚続編もでている)
脱線してしまいました。
息子たちの中で最も優秀なクラヴィーア奏者であり小都ビュッケブルクで長く宮廷音楽家を務め最後は宮廷楽長になった「ビュッケブルクのバッハ」といわれた5男ヨハン・クリストフ・フリードリッヒ残された作品には、14の交響曲や8曲のピアノ協奏曲、室内楽曲のほか、鍵盤楽器のためのソナタ、オラトリオやモテットなどの宗教曲、歌曲、舞台音楽などがあります。(一部ウィキペディア参照)CDから聞こえる音楽は非常に明るく個人的には好ましいトーンです。
ヨハン・クリスチャン・バッハ(1735~1782)

父、大バッハが死んだとき15歳の少年でした。そのせいでしょうか?全くの自力で自らの道を切り開きました。バッハはこの息子に対していつも「若い者はその愚かさによって成功するものだ」という諺を口にしていたと言います。「愚かさ」を「天真爛漫テンシンランマン」と置き換えて解釈するとき,バッハ家のメンバーの中で唯一ヨハン・クリスチャンのみが備えていた特質であったようです。彼は父の教育ももちろん受けましたがそれ以上にベルリンで異母兄のカール・フィリップ・エマヌエルの世話になり音楽的な教育も受けています。ただ、父の価値観などまるで意に介さず,その後はイタリアに行き、しかもプロテスタント信仰を捨てカトリックに改宗しました。
イタリアやイギリスで活躍して「ミラノのバッハ」「ロンドンのバッハ」といわれW.A.モーツァルトにも多大な影響を与えました。モーツアルトが1756年生まれですから年の差は21歳、1764年に二人はロンドンで出会っているという記述があります。そのときにヨハン・クリスチャンは幼いモーツアルトにバッハ家とイタリアの音楽を教えました。果たして二人の音楽は聴いてみると非常によく似ています。
 音楽学者フィリップ・シュピッタ、19世紀の音楽史家、自著のバッハ伝(2000ページにも及ぶ1873年、1880年に出版された2巻の著作、敬意を込めて単に「シュピッタ」と呼ばれている)において、「特徴的なのは、数世紀を経てバッハにおいて絶頂を極めたあれだけの力が、バッハの息子たちにおいて衰えていったことだ」とし、バッハの最初の伝記作家、ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1802)は、特にクリスティアンについて、「バッハの息子たちの独自な精神は(中略)、彼の作品のいずれにおいても見当たらない」と述べています。研究者や音楽界が、バッハの息子たちについて、それぞれの息子が異なる様式で作曲したのは正当なことであり、息子たちの音楽言語は、父親よりも劣っているのでもなければ、悪くなったのでもないと悟るのは、ようやく20世紀になってからであった。こうして作曲家ヨハン・クリスティアン・バッハは、新たな評価を受けるようになりました。
 さて、このCD7枚組を紹介することによって大バッハとバッハの息子たちについていろいろな文献、サイトから情報を転載させていただきましたが、ぼく自身が今まで知らなかったことを知ることができて楽しい作業でした。バッハのファンがやはりたくさんいらっしゃるんだということもわかりました。(ウィキペディアには特に感謝です!)これからもバッハの音楽とは仲良く関わっていきたいですね~。疲れました。
BRILLIANT CLASSICS BACH SONS 7CDBOX 99785/1~7