今年のサイトウキネンフェスティバルが9/12のBプログラムで幕をおろしました。今年で15回目を迎えたこのフェスティバルは、ここ松本の地に確実に根付き、更に大きな葉を茂らそうとしています。9/15の朝日新聞、文化欄に音楽評論家の片山杜秀さんが表題の通り、小澤征爾総監督が指揮したオーケストラ演奏会初日の演奏会について書いておられるので紹介しようと思います。こういう音楽評論家の書かれた批評は、辛口なものが多く、更に言うとこちらは非常に満足した楽しかったコンサートなのに、いわゆるケチを付けられることもままある訳で、そうすると興ざめしてしまうことがあるのですが今回の記事は、全く同じ意見でしたので気分よく転載させていただこうと思っています。
サイトウキネンフェスティバル松本の15回目。その掉尾(とうび)を飾る、小澤征爾指揮サイトウキネンオーケストラの演奏会を聞いた。
 まず、ベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」.独奏は内田光子である。
 鍵盤を正確にたたくだけなら、内田よりもうまい若手はいるかもしれない.しかし、内田ほど表現にあふれたピアニストとなると、他にはそうはいないだろう。
 とにかく音楽の変わり身がはやい。大作曲家が楽譜にしかけたわずかな転機も、内田の鋭い目は逃さない。慈母観音の優しさが烈女の気迫に、綿菓子のような弱音が金剛石のような強音に豹変する.大方の演奏家が一色で流しそうなくだりも、はっきりと区切られ、染め分けられる。
 そのようにして、頻繁に設定される断層と落差が、音楽を不断に押していく。この大曲がジェットコースターに乗るように、息つく暇もなく終わる。小澤の伴奏も機敏である。仰々しい「皇帝」のイメージを打ち崩す、スリル満点の演奏だった。
 そして、ショスタコービッチの交響曲第5番。こちらは、「皇帝」とは対照的だった。何も神経質なところがない.太い筆と濃い墨汁で、のびのびと書いていく.そういう音楽作りである.旧ソ連の生んだ皮肉と韜晦(とうかい;自分の才能地位などをつつみかくすこと広辞苑より)の巨匠といった、今日の一般的な作曲家像とは、一線を画している。
 スケルツォは、冷笑とは無縁な、たくましいロシア舞曲だった.アダージョは憂鬱げではなかった。熱くほてった、祈りの歌と化した。フィナーレも、スターリンに強制されての,いやいやながらの歓喜などではない。名人そろいのオーケストラのエネルギーを解放しきった、全肯定的な生命讃歌が,轟音の渦にとなって,広い会場を圧した。
 天高く馬肥ゆる秋という言葉のように,晴朗なショスタコービッチだった。小澤の音楽は,理屈抜きで人を幸せにした。(後略)
という記事でした。
 浅学非才な身ゆえの一般的な批評家に対する感想は,とにかくなんでこんなに意味不明の難しい言葉をお使いになるのか?ということです。たくさんの故事を知っておられるのは分るのですが、読み手のレベルも考えて欲しいということです。しかし、今回の片山さんの書かれた文章は非常に分りやすくたとえも上手でまさに,実際にはお聞きになっていらっしゃらない方にも雰囲気が伝わるのでは?と思える文章でした。(こき下ろしていないところがまたいい!勿論書かれても仕方ない演奏会があることは承知していますが)
このコンサート,というか,サイトウキネン全体の感想にもなるのですが,小澤さんの人望,或は力と言っても良いのですが,すごく感じます。弦楽器は桐朋の優秀な先輩たちが斎藤秀雄先生の血を脈々と後輩たちに受け継ぐ訳ですから問題は解決している(若手育成にもすごく力を注いでおられます)のですが,問題は管楽器、打楽器です。開幕からのプログラムを見ても分るように,このセクションに対して小澤さんはベルリンフィルや,ウィーンフィル,そしてボストン響の、或はソロのトップ奏者を招聘しています。だから聞き応えがない訳がないのです。本当に皆さん!お上手!です。それが出来る小澤征爾!今や世界の頂点に立つ指揮者です。今年の誕生日で71歳を迎えられたのですがまだまだお若い!頑張ってもらわにゃ!というところです.今年前半はご病気で入院されたのですが回復されて本当に良かったです。小澤さんに関してもう一つだけご紹介します。指揮台の前には譜面台が置いてありますが、そこに楽譜が開かれておかれていたことはほとんどありません。楽譜すら置いてないことの方が多いと言っても良いです。どうしてあんな長い曲が頭の中に入ってしまうかは知る由もありませんが,まさに天才!のひとりなのでしょう。サイトウキネンフェスティバルは,松本の宝です。これからも陰ながら?ファンを力強く続けていこうと思っております。
サイトウキネンフェスティバルのホームページはこちらです http://www.saito-kinen.com/j/