16世紀後半、ジョン・ダウランドは述べています。リュートは「持ち運べるすべての楽器の中で」もっとも広く知られた楽器となったと。リュートのための楽譜集はヨーロッパ各地の印刷所からおびただしい量をもって送り出され、人々に、彼らのひいき奏者、ひいき作曲家の手になる最新の傑作を提供しました。僕も良く知りませんが、その作曲家をあげると、フランチェスコ・ダ・ミラノ、ペリーノ・フィオレンティーノ、アルベール・ド・リップ、メルヒエール・ノイジトラー、ジョン・ダウランド(最後のダウランドだけは知っていました!)といった人々の作品であります。これらの代表的なリュート奏者、作曲家の名前は今日の一般的な音楽愛好者にとってもそれ程なじみがないのですが当時のリュート曲集をあらわした奏者兼作曲者は当時最も高い社会的尊敬を受けていたようです。今ではいったいどのような職業なのでしょう?まさかIT長者ではないと思いますが、、
シモーネ・モリナーロ(1570頃~1634)が、ルネサンス器楽の最も素晴らしい集成の一つを出版したのが1599年のことでした。日本では徳川家康が翌年関が原で天下分け目の合戦で石田光成と戦うというそういう時代です。その<リュート・タブラチュア曲集 Intavolatura di Liuto>には様々な舞曲、声楽作品からの編曲が含まれています。この集成はモリナーロの叔父であり師匠に当たるジョバンニ・バッティスタ・ダッラ・ゴステーナ(1558頃~1593)へのオマージュ(最近この言葉がはやっておりますが、、、尊敬、敬意と訳されているようです)として編まれました。ゴスティーナは1593年に45歳という若さで殺害されてしまい、早すぎたその死は甥のモリナーロに深い打撃を与えました。それは、1599年から1612年までの間にたくさんのゴステーナの遺作(マドリガーレ、モテット、マニフィカトなど)を出版し続けたことでもわかります。ゴステーナは1558年頃ジェノバに生まれました。ウィーンで定評のあったフランドルの作曲家フィリップ・デ・モンテに学びその後ジェノバに戻りサン・ロレンツォ大聖堂の楽長に任命されたという偉い音楽家でした。教えを受けたモリナーロも1601年に叔父と同じくサン・ロレンツォの楽長に選出され1617年までその職にありました。その後彼はパラッツォ聖堂で同じ楽長の職を与えられ1634年亡くなるまでその地位にいました。
1599年にリュート曲集を出版してから後はもっぱら声楽曲の創作に没頭したようです。なぜ、リュートから離れてしまったのかはいまとなっては謎だそうですが、、、以降、モリナーロと叔父のゴステーナは長いこと忘却の底に沈んでいました。理由は?モリナーロのリュート作品が最高に難しい作品を含んでいるからでこれらの作品は16世紀、17世紀のいかなるリューテストのテクニックをも超えて楽器の限界にまで達しているそうである。
その曲をポール・オデットはいかなる難所も音楽的効果を全く損なうことなく演奏しており、その卓越した技量には舌を巻かざるを得ない。リュート音楽史上高峰の一つに改めて焦点をあてると共に真価を表しえた貴重なCDと言える一枚です。こういうCDに出会えるから音楽は面白いと心から思えるのです。
HMU 907295