1685年という年はクラシックファンにとって(?)特別な年です。何回も書いてきましたが大好きなバッハがこの年に生まれていますし、ヘンデルも同い年なのです。そして今回ご紹介するスカルラッティも1685年(10月26日)にナポリで生まれています(~1757)。村治香織さんがこの3人を特集した素敵なCDを録音しています。さて、近代鍵盤楽器奏法の開拓者として音楽史上大きな足跡を残したドメニコ・スカルラッティは、ナポリ派の総帥アレッサンドロ・スカルラッティを父に持ちます。親子で音楽史の変遷に重要な貢献をした音楽家はスカルラッティ父子の他にはバッハぐらいしかありません。日本では服部家が3代に渡って作曲家をしておられますが、、
 ドメニコが初期にどのような教育を受けたかは明らかではありませんがおそらく父アレッサンドロから最初の手ほどきを受けたに違いありません。非常に早い時期から天才的な才能を現したようで1701年16歳の時にはアレッサンドロが奉職していた宮廷礼拝堂のオルガニストになり翌々年にはナポリで初のオペラ作品を発表した。1705年、かわいい子には旅を!の諺通りアレッサンドロはドメニコをフィレンツェ、ヴェネツィアへ修行の旅に出した。ヴェネツィアで1708年まで3年間に渡り、フランチェスコ・ガスパリーニ(1668~1727)に師事しました。
この頃イタリアに留学中のヘンデルを知ります.既にチェンバロ奏者としてイタリア国内に名を知られていたドメニコはオットボーニ枢機卿の仲立ちでオルガンとチェンバロの技をヘンデルと競い合うことになりました.結果は?と言いますとオルガンの即興ではヘンデルが勝っていたがチェンバロではスカルラッティの独創的で典雅な演奏スタイルが好評を博し2人は雌雄を決することができずお互いの腕前に敬意を表し、堅い友情で結ばれたそうです。
 彼が残した550曲余りのチェンバロ・ソナタは、イタリアで一般的であったトリオ・ソナタでもソロ・ソナタでも無伴奏ソナタでもない、通奏低音の書法からかけ離れた形式で書かれていました。全くの独創的な仕事でした。ドメニコの真の創造的な仕事は、これらのソナタにこそあったと言って良いでしょう。スカルラッティ自身によってエッセルツィーチ Essercizi(練習曲)と呼ばれていた、これらの1楽章形式のソナタは、1738年に《Essercizi per Gravicembalo チェンバロ練習曲集》として30曲が出版されています。その後、40曲ほどがイギリスで出版されますが、残りの大部分は何冊かの手縞譜として後世に伝わりました。
 ドメニコ・スカルラッティは、1729年に出版した《チェンバロ練習曲集》の序文に「これらの作品のうちに深刻な動機でなく、技術的な工夫をこそ見て欲しい」と記しています。スカルラッティのソナタは、確かに構成上の無駄を一切はぶいた極端にシンプルな楽曲ですが、その中に示された楽想の多様性には、実は目を見張るものがあるのです。王女マリア・バルバラは生涯ドメニコにチェンバロを教授されたそのためにイベリア半島に渡ることになります。そのイベリア半島の民族音楽の刺激もあり、スカルラッティは独創的な仕事が出来たと言ってもよ良いのかもしれません。
ドメニコ・スカルラッティが残したソナタは、現在では職業ピアニストにとっては指慣らしやアンコール・ピースとして、ピアノの初学者にとっては練習曲として使用されています。サイトウキネンフェステバルでピアノコンチェルトを弾き終えた内田光子さんがアンコールとして弾いたのもスカルラッティでした。素晴らしかったのを覚えています。
 J.S.バッハの平均律とは全く性格を異にしていますが、それ故にこそ、J.S.バッハと比肩し得るほどの、後期バロック鍵盤音楽の貴重な財産のひとつとなっているのが、ドメニコ・スカルラッティのソナタ集なのです。
このCDにはその中のたった10曲が納められていますがレオンハルトが渾身の演奏を聴かせてくれています。
BVCD-1622